エフエの翼
 
  峡谷都市とでもいうべき都市がある。無限の深さと長さを持つ峡谷の中腹に、橋を架けるようにその都市は存在する。大きさは全長六〇キロメートル、幅四〇〇キロメートル。しかも人口に伴って年々大きくなる。磁力を利用した鉄道と、光ファイバーの網がこの文明を支えるハンモックであり、この都市だけが彼らの世界だった。 
  そんな都市で奇形児が生まれた。男の子だった。その子の肩からは既知のどんな生物の器官にも似ていない妙な巨大な器官が生えていた。平凡とされる「エフエ」という名前を付けられたのは、彼の異様な外見を怖れた両親のせめてもの逃避であったかもしれない。 
  二十八回の精密な検査によって、奇妙な器官がエフエの生命活動と関係が無いらしいことがわかると、両親はすぐに器官の切除を依頼した。手術は難しくも危険でもなかった。ただ困るのは、この器官がしばらくすると完全に再生してしまうことだった。再生を妨げようと肩を異物で覆うと、幼児は激痛に泣き叫んだのでこれも断念することになった。 
  医学者と生物学者の関心がエフエに集中した。既知のどの生物にもない形状、これをもたらした遺伝子は単なる突然変異の産物なのか、それとも人類の祖先である未知の古生物が持っていたものなのか。だとすればそれはどのような生物で、この器官は何の役に立っていたのだろうか。また、この器官に正確な再生能力を持たせているシステムは何なのか。医療に応用することは可能だろうか。 
  科学者たちによって器官は「翼」と名付けられた。翼を構成する無数の白い物体は「羽根」と命名された。手術で切断された翼は保存され、熱心な研究の対象となった。エフエが四歳のとき、これらの疑問の一つに重要なヒントがもたらされた。彼が翼を「使った」からだった。支えを使わずに自分の体を上昇させることのできる能力。科学的調査の結果、翼が独特の形状と動かし方のパターンで空気の流れを操り、それを可能にしているらしいことが判明した。工学や物理学の研究者も彼に興味を持つようになった。この器官を人工的に応用できれば、都市拡大工事の危険な作業に安全性をもたらしてくれるかもしれない。彼ら科学者たちはみなエフエに好意的だった。 
  だが、十年近く経ったある日のことだった。前兆はなかった。ある著名なジャーナリストが、最も有名な新聞でエフエの翼について論じた文章を発表した。それによれば、翼はひとつの恐ろしい可能性を秘めている。エフエが絶壁の上の世界に向かうことが可能だというのだ。大変な騒ぎになった。 
  エフエに無制限に自由を与えていていいのか、何らかの制限や監視が必要なのではないかという世論が市民権を得た。それは人権の侵害ではないか。いや、やむを得ぬ措置だ。エフエの了解さえ得られれば問題はないはずだ。エフエの意志をどう確認するのだ。今の世論の中で彼が拒否できるわけがない。どう言い訳しようと、質問の形を取った命令になるだけだ。それでは実際にエフエが上の世界へ向かう可能性をどうする。エフエが信頼できる人格の持ち主だと誰に保証できるのか。そもそも、彼に良識があるなら、なぜ自分から監視を受け入れる宣言をしてこないのか。不必要な人権侵害など誰も考えていないというのに。翼の研究もすべて禁止すべきだ。それは学問の自由を侵すことになる。建設的な利用のためならばかまわない。いいや、上へ向かうことが可能になるようなものの研究を許してはならない。………。……。……………。 
  これらのような意見があらゆるマスコミで、またエフエの周囲の一般人の間で交わされた。特にエフエの人格を査定する参考になると彼らには思えるようなあらゆる情報は氾濫し、大衆の空想を掻き立てた。危険な思想を持ってはいないか? 反社会的なものに関心を示していないか? 友人は少なすぎないか? 「暗い」少年ではないか? 十分に従順か? 本心から従順なのか? 不自然に従順すぎないか? どんな病的傾向もないか? この手の大衆的な人間観に基づき、エフエの行動は解釈され、行動しなかったことも解釈され、発言を解釈され、沈黙を解釈された。好意的な解釈は多くなかった。 
  例の新聞の発行から三年後のある日、エフエは十七歳になっていた。都市中心部にある公園で、彼は久しぶりに翼を広げた。何をする気だという周囲の視線も、その時の彼には気にならなかった。なぜなら。 
  強烈な風とともに、エフエは姿を消した。公園の人々はエフエが何をしたのか分からなかった。もっと遠くでたまたま空を見ていた者には、昇って行くそれが何なのか分からなかった。もっとも、十二時間以内に情報は統合され、エフエがしたことは全都市に報道されたのだが。 
  上の世界に何があるだろうか。何も無いかもしれない。それでもいい。あの世界でおとなしくしていても、面白いことがあるわけでもない。エフエは飛び続けた。休む場所はなかった。腕時計は持っていたが、短針が何度回転したか忘れてからは無意味な機械だった。だがデザインが気に入っていたので捨てはしなかった。 
  そして力尽きた。 
  高速で落下しながら、このまま落ちれば激突して死ぬと考えた。嫌だとは思わなかった。なにを今さら? 予想していたことの一つが的中しただけだ。 
  だが都市が見えてきた時、エフエは違和感を持った。都市の様子が出発した時と明らかに違うのだ。見慣れないものが蜘蛛の巣のように、彼が落下するであろう一帯を覆っている。なぜかその下や周囲には人々が群がり、TVカメラも各所にあるようだった。それが何なのかを理解し、市民の意図を悟った時、エフエの全身が怒りで硬直した。 
  エフエは、自分が自慰の道具にされようとしていることを知ったのだ。 
  大衆は成長物語が好きだ。自分たちを脅かす才能を妬み、怖れ、それを大したことではないのだと思い込みたがる。そして才能よりも、人間性と称する大衆らしさ、自分らと同様であることに価値を置く風潮を造り出そうとする。「才能は人の為に役立ててこそ価値がある」この言葉は才能の価値の巧妙な否定だ。そして、物語の中でそれを証明しようとするのだ。それゆえ彼らは、逸脱者の降伏を成長として描く物語が大好きだ。なぜなら、それは才能ある者が大衆に対する敗北を自ら認める物語なのだから。 
  彼らはエフエを「救う」つもりなのだろう。自分がどれほどの屈辱を受けようとしているのか、エフエにはありありと想像できた。峡谷の都市のメディアに一斉に流される作り話。矮小な動機に躍らされ社会に反抗し、結局は彼ら市民に救われ「成長」する少年の物語! 
  フ・ザ・ケ・ル・ナ。 
  「救う」ための網がエフエを捕らえようと蠢いたとき、彼は最後のはばたきをした。次の瞬間、比較的遠距離から撮影していたために助かったTVスタッフ達は、以下のものを全都市に放映してしまっていた。 
  糸切れと化した網。 
  都市の中心に開いた無惨な風穴。 
  悲鳴を上げて落ちていく百何十人かの「救い」のスタッフと報道陣と野次馬。 
  遥かな下方へと去ってゆく翼ある少年。 
  彼の右腕に抱かれた一人の少女。 
  それは網の真下にいた、エフエのかつての同級生だった。 
  エフエのことはTV画面を通さずに知っていた。だが彼女は、自分とエフエはただの同窓生だと思っていた。だからなぜ自分が彼に選ばれなければならないのか理解できなかった。彼女は気づかなかったのだ。分け隔てなく接してくれた、ただそれだけの少女が、相手にとっては最も親しい人間であったことを。もっとも、そんなことを考える余裕はなかった。気流に揉まれて目と口に飛び込んでくる自分の髪の毛を取り押さえた途端、彼女は離れて行く故郷の姿に目を奪われたのだった。 
  それも一瞬の事だったが。 
  なぜなら、彼女の視界が突然、無数の白いものに遮られたからだ。羽根だった。少年の羽根が次々と彼の身体から離れ、上昇していくのだった。そしてその羽根たちが都市へ達した瞬間、少女には信じられない光景が広がった。白い羽根の一枚一枚が、一人ずつの市民の頭部を貫いていったのだ。ある羽根は落下する者を空中で。ある羽根は人工の大地を切り裂いて。方向転換などせず、まるで天に帰る羽根の軌跡に、たまたま被害者達がいたかのようにさりげなく。だが間違いなく、一枚の羽根が必ず一人の市民の脳を打ち砕いていった。 
  お前らはこれが俺の復讐だと思っているだろう。けどな、何千人だかの死など単なるおまけに過ぎない。俺の羽根に脳を貫かれたほとんどの人間は即死する。だが、ごくわずかの選ばれた者は生き残り、俺と同じ翼を生やすんだ。そして……翼を持たない者にとっての悲劇よ、始まれ。お前らに安泰な世界など許さない。 
  やるべきことはやった。 
  彼は腕の中の少女に目を移した。破れた衣服の隙間から白い肩が覗いている。彼は翼だったものを動かした。それは全ての羽が抜け落ち、単なる巨大な針と化していた。その先端で少女の肩に静かに触れ、突き立てた。 
  あっと叫んで、少女は体を硬直させた。痛みに顔を歪めながら自分の肩と、針とを数秒間見比べていたが、突然、理解に弾かれたようにエフエの顔に目を向けた。痛みに耐えながらもエフエの意図を探ろうとする表情に、彼はにっこりと微笑みかえした。 
肩から、巨大な針を引き抜いた。摩擦が余程の激痛を与えたのだろう。可愛い口から、ぐうううううという低い声が漏れた。傷穴から血液が糸を引くように上昇していった。もう一方の針を顔に近づけると、やめて、と叫んで動くほうの手で顔を守ろうとした。それが彼の狙いだった。掌から挿入し、腕の内部を掘り進んでいった。ひじを貫き、もう片方の肩も破壊して、先端が鎖骨を割った。 
  大量の涙液を空中に放出しながら少女は泣き喚いた。 
  泣くのを放置しておくと、そのうち言葉で痛みを訴えはじめた。それが苦痛の軽減になるのか。最初の訴えのときに攻撃していれば、今ごろ彼女は必死で喋るのを我慢したかもしれない。惜しい事をしたかな、見てみたかった。エフエは再び、針を時間をかけて抜きはじめた。単にゆっくりと抜いたのではない。時々、わざと別の方向に引っ張ったり、回転させたりして摩擦を加えた。そのたびに少女の表情が、とっくに嗄れた声が新鮮さを取り戻す。痛みを最小にしようと必死で、針の動きに合わせて腕を動かそうと拙い努力を続ける。 
  それも抜き終わり、何時間が経ったろうか。急にエフエは少女を捕まえていなかった方の手を動かした。その手には、何か小さなものが握られていた。少女のあごに、その何かで触れた。手を放すと、それは少女の頭部に滑り込み、破裂させた。最後の白い羽はそのまま昇天していった。 
  少女の体はもうすっかり冷えていた。少年はそれを強く抱きしめたまま、安らかな笑みを浮かべて目を閉じた。 
  常人には強すぎる気流が、寝顔を優しく撫でた。 
 
 
 
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