凡辞苑
 

あ行
 
:自己愛、異(同)性愛、親子愛、きょうだい愛、家族愛、友愛、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心、人類愛など、愛を含む熟語には愛が向けられる対象で愛を分類しているかのようなものが多い。しかし、これらの熟語が同一の特徴を持つ感情を対象によって分類しているとは考えられない。「愛」という言葉は、表明することによって得られる社会的利益を狙うものであると考えるほうが合理的であろう。 
――に飢える:愛情欠損型性格という概念は存在し、英国の精神科医J.ボウルビイによって提唱された。彼によれば、養育者との長期分離を経験した子ども(施設収容児など)や、過酷な養育環境(虐待など)に置かれた子どもは“無感動性”や“冷たさ”の際立った特異なパーソナリティを相対的に形成しやすいという。ボウルビイは盗癖児のなかに、他の情緒的問題児に対してこうした性格特徴を持つ子どもが多いと主張した。特徴は、他者との親密で安定した関係を築きにくく、根深い対人不信と愛情希求のあいだで絶えず揺れ動く結果、対人接触態度に一貫性が乏しく、対人関係の中で抑うつ的になったり、過度に攻撃的になったりもする。時に攻撃性が自分自身に向けられ、自虐的行為に走ることもある。以上の説明は、欲望や衝動や攻撃性がまるで流体のように存在し、どこかに必ず出現するという精神分析学の欲動論を含んでいる。この考えは科学的に反証されたものである。 
  これは相対的な形成されやすさの問題であって、誰かが無感動性や冷たさや攻撃性を示したからといって、それを根拠に「この人は愛に飢えているのだ」と結論することはできない。しかし、自分と意見の異なる者を「愛に飢えている」などの表現で、精神的欠陥者と決め付けることにはメリットがある。相手への攻撃(嫌がらせ)と同時に、優越を示すことができる。また、相手の意見を単なる病状として扱うことができ、論駁の義務を免除される。この免除は心理的なものである。相手に性格的欠陥があることで、その意見が論駁の必要の無いものになるという論理は妥当でない。 そもそもこの傾向自体、ボウルビイが考えたものほど強くはないとする専門家の批判も多い。 

悪の科学者:マッド・サイエンティストの項で論じる彼らの性質をより強くデフォルメし、社会に対する故意の敵対という一項を加えたもの――恐らくこの辺りが、典型的な「悪の科学者」像と言えるだろう。 
  「差別的」な文学その他の表現の規制論者が言うには、差別的な内容を持つフィクションは被差別者にとって不快なばかりか、子どもの精神に影響を与え、差別を再生産してしまう可能性がある。ポルノの性差別に対する影響や、『ちびくろサンボ』の黒人差別に対する影響などがよく問題にされる。しかしながら、悪の科学者やマッド・サイエンティストが登場する膨大な数のSF作品が、職業差別にどのような影響を与えるかを論じる意見はないようだ。→科学マッド・サイエンティスト 

家に帰るまでが遠足:教師が遠足の解散時に、注意して帰宅するよう促す時の決まり文句。我々は20歳前後の若者を対象とした調査で、都道府県単位での出身地と、この文句を実際に教師から聞いたことがあるかどうかを尋ね、この文句が全国に広まっていることを明らかにした。遠足にまつわる決まり文句には他に「おやつは300円まで」「バナナはおやつに入らない」がある。 

一緒にする:「AならばBである」とき、あるAでない事物Cを持ち出し「ゆえにBである」と結論することはできない。しかしCがAに属するならば、これをBと結論することは正しい。「哺乳類には心臓がある」ならば「ライオン」には「心臓がある」と結論できる。ライオンは哺乳類だからである。哺乳類に心臓が幾つあろうと、それゆえにアサガオに心臓があると結論づけることはできない。アサガオは哺乳類ではないからだ。この場合、アサガオに心臓があると言い出した者に「哺乳類とアサガオを一緒にするな」と抗議するのは論理的に正しい。しかし、「マザー・テレサに心臓がある」と言った人に対して「肉食獣と聖女を一緒にするな」と言うのは間違っている。ライオンがどれほど獰猛で、マザー・テレサがどれほど人格者であろうとも心臓の有無とは関わりが無い。条件にかかわる差異と無関係な差異を「一緒にしてはいけない」。 

癒し:医学的・薬学的治療による治癒に対して、心身相関的な意味での治癒、および超自然的な、理論的に説明しにくい治癒が達成されるとき、癒しと呼ばれる。時には、通常の治癒と超自然的な治癒とを含めた広い意味に用いられることもある。ターミナル・ケアにおいて、症状は治療しえなかったが心が癒されたという場合、より高い次元での精神的統合、調和への到達が意味されている。いくつかの異なる意味で用いられるので注意する必要がある。 (弘文堂『ラルース臨床心理学大事典』より) 
  ミネルヴァ書房の『カウンセリング辞典』によれば「人間の全体性の回復」(healingの語源はギリシア語のholos=全体)である。通俗心理学の文脈で頻出するが非学術的な語であり、心理学・精神医学の辞典にはあまり載っていない。 

:人間は、コインを投げると表と裏が実際以上に交互に出るという直観を持っていることが明らかになっている。ランダムな事象の生起についてのこうした誤った直観は「偏りの錯誤」と呼ばれる。人はこれを運の良い時と悪い時、あるいは良い人と悪い人という超常現象的解釈で合理化する。スポーツやギャンブルの世界では「流れ」「波」とも呼ばれ、スポーツについては心理学的解釈が入るが、Gilovichらによって俗説の間違いが示された。この俗説を信じる心理的な原因は色々ある。→波に乗る 

えらくない:人の属性や行為の価値を否定するための決まり文句。例えば、小学校の写生会で引率の教師が「色のたくさん入った絵具を持ってくる人がいますが、全然えらくありません」とわざわざ言う場合などである。この表現は「〜が全てではない」などの表現に取って代わられ、現在では古いものになりつつあるか、既になっている。 

 

か行
 
科学 
――教:本来は科学への盲目的信頼を宗教に喩えて揶揄する言葉。相手が、十分な理由があって科学を重視している場合には当然、使用を控えるべきものだが、レッテル貼りに使われることが多い。科学絶対主義、科学万能主義なども同じように使われる。 
――がすべてではない:ある主張の根拠となる体系が十分に有力である場合、反対者はしばしばその無謬性や完全性を否定することで、その心理的な信頼度を弱めようとする。「〜が全てではない」「〜は完全ではない」はこのような目的でよく使われるが、その特殊形である。もちろん科学は全てではないし、間違えることもある。ただし、この言葉が否定している命題は「科学が間違えることは無い」ことなのである。反科学・反知性的言説が浸透した現在、こんなことを信じている者はいたとしても少数であろう。 

かわいそう:フィクションにおいて、善良な役柄のキャラクターが悪役に向かって「かわいそうな人ね」と呟く。言われた悪役は激怒するか、少なくとも顕著な動揺を示さなければならない。しかし各作品の作者が、発言者がその状況において本心から相手に同情し、言われた方は激怒するものであると考えて描いているかは極めて疑問である。また、発言者が意図的に侮辱表現を用いていると考えるのにも無理がある。この発言をするキャラクターはしばしば、嫌がらせをするには余りにも純潔すぎるからだ。この表現の解釈は、(キャラクターが現実の人類と同じ精神構造を持っていると仮定する限り)世界観の設定だけで解釈するには無理がある。この表現は「かわいそう」と評価するキャラクターの、評価されるキャラクターに対する優越を表現する記号であるという解釈が妥当であろう。また、筆者の直観では、発言者は非戦闘員(特に女性)が多いように思われる。おそらく、キャラクターが持つ何らかの秀でた力に対する読者の劣等感を低減させるためだろう 
  しかし、現実に侮辱表現としてこの言葉を用いる者がしばしばいる。「虚構と現実との区別がついていない」のだろうか。この言葉は「成長」概念と同様、攻撃を正当化するものと考えられる。→成長虚構と現実の区別がつかない 

逆説:小学館『新選国語辞典』によれば「@反対の議論。A真理にそむいているようでいて、よくたしかめると真理でもある説」。現在ではAの意味で使われることが多いだろう。すなわち、すぐに論理構造を見抜くことが難しく、一見して矛盾しているかのように見えるが正当な言説のことである。しかし、論理構造を見抜く能力には個人差があり、論理構造を見抜く能力が劣っているほど、より多くの言説が逆説に見えやすいと考えられる。とすれば、この能力の低さが、この語の出現頻度と正に相関すると考えられるだろう。「二重性」「二面性」という語にも同じ事が言える。 

狂気の科学者:→悪の科学者マッド・サイエンティスト 

虚構と現実の区別がつかない:虚構の代わりに、漫画やゲーム、インターネットなど具体的なメディア名が入ることもある。これらに共通するのは、割と新しいメディアであることである。1986年のアニメ映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』で、鉄人兵団が攻めてくると騒ぐのび太達を、ママがマンガと現実の区別がつかなくなったのだと決め付ける(が呑気に家事を続けている)シーンがある。また1985年の『ことばを失った若者たち』(桜井哲夫、講談社現代新書)という本にもこのパターンの考えが見られ、これ以前から浸透していたのは確実である。主に若者の猟奇殺人などの犯罪がこのパターンと結び付けて語られる。しかし、これらの犯人達の発言には「ゲームをしているようだった」というような内容のものはあっても、比喩の範囲で説明でき、自分がテレビの前でゲームをしているという妄想を持っていたものはない。彼らは虚構と現実の区別を付けていたからこそ、書店やテレビルームから出て、わざわざ外で犯罪を行なったのである。 

公共の福祉:出典は無論、日本国憲法である。 第一三条によれば、「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とある。国民の権利を制限するような法律に関する素人の議論では、反対者が自由又は権利の侵害を唱え、賛成者がそれは公共の福祉によって制限できると言うパターンはお決まりであるようだ。しかし、安易な制限が「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定に反するのではないかという指摘を見かけないのは不思議である。 

:精神は物質よりも尊いものであり、卑俗な物理法則ではなく、別のはるかに神秘的な法則で動いていると考える、伝統的な強い衝動がある。デイヴィド・B・モリスは著書『痛みの文化史』の中で、痛みの研究をしていると話すと必ずといって良いほど「それは体の痛みですか、心の痛みですか」と聞かれるという体験を告白し、単純な二元論の誤りを指摘している。1995年のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、兵器エヴァンゲリオンと操縦者の「脳」の連動を説明しようとした科学者が、友人に「心、でしょ」と穏やかに非難されるシーンがある。 「こころ」と平仮名表記すると、より感動的に受け取られ、またそれを意図して書かれることもあるようだ。 
――の教育:1984〜87年の「臨教審」の第二次答申の提唱に始まるとされるが、97年に起こった神戸市須磨区の児童連続殺傷事件をきっかけに盛んに言われるようになった。事件を受けて同年八月、文部省は第16期中央教育審議会に「幼児期からの心の教育のあり方」を緊急に諮問。これに呼応し、各地の教育委員会でも「心の教育」をテーマに様々な取り組みが始まった。特に、震源地と言える兵庫県教委と神戸市教委は合同で、河合隼雄を座長に「心の教育緊急会議」を設けた。しかし、日本子どもを守る会『子ども白書‘99』は「心の教育大合唱」について「明治以来、日本の支配層は体制の矛盾や困難が激化するとそれを隠蔽するために、あるいは反動的に打開するために、教育政策を利用してきました。しかも、知育偏重から徳育強化という形で。今回の「心の教育」の強調もその系譜につながっていることは言を待ちません。」と否定的である。知識偏重 
――をなくした心理学:主に行動主義などの実験的手法を用いる心理学を非難する言葉。 →癒し人間を人間として扱う 

 

さ行
 
:漫画などで「ぢ」と表記されがちだが、正式にはやはり「じ」と書く。 

自殺 
――は卑怯者のすることだ:1993年にベストセラーになった鶴見済の『完全自殺マニュアル』で著者は再三、この言葉に対する注意を促している。否定したい行動を取ろうとする者を故意に侮辱的なカテゴリに分類することで相手の自尊心を傷付け、止めさせようとする試みの一種。 

集英組:週刊少年ジャンプを始め、集英社が発行する漫画雑誌では作品中の暴力団に、頻繁に「集英組」または「集英会」の名が付けられる。架空の企業が登場作品の出版元から名前を借りることはよくあるが、集英という語は暴力団につけてもよく似合う。 

自由 
――と身勝手は違う:19世紀にフローベールが著した(フローベール自身は未完の小説中に収録するつもりであったようだ)『紋切型事典』の「自由」の項には、「自由は放縦と同義ではない」という台詞について「保守主義者の言いぐさ」と書かれている。19世紀には既に同じことが言われていたことになる。 
――のはき違え:使われ方は上と同じである。履き違えとは本来、履き物を間違えて履いてしまうことで、転じて意味を誤解することを指すようになった。自由にしか使わないという訳ではないが、筆者がサーチエンジンで「履き違え」を検索し何に何回使われているかをカウントした結果、最初にヒットした180件中、「自由」を履き違えさせる用例が18件で最多であった。ちなみに2位は「愛情」など愛関係が6件、 3位は「目的」の3件であった(うち2件は目的と「手段の履き違え」)。 

消極的:→ネガティヴ 

城南大学:おそらく日本で最も多く使われる架空の大学名。このような「紋切り型」固有名詞をつけられた物は作品中で重要な役割を持たないことが多いが、現在TV朝日系で放映されている『仮面ライダークウガ』に登場する城南大学は例外である。城南大学はオダギリジョー演じる主人公の母校であり、考古学研究室では彼と関わる遺跡を研究している。単に設定上の重要性だけでなく、きちんと毎回登場するという優遇ぶりである。 

人格攻撃:論争において、相手の人格を批判し攻撃する行動。ルールに則って行われるディベートでは反則行為とされる。日本人は特にこの方略を常用するという俗説があるが、真偽は定かではない。 

全ての〜が…ではない:相手の論旨より極端な内容を否定するパターン。残念な用例は巷に溢れている。 

成長:暴力的ポルノグラフィー、すなわちレイプ物のポルノが視聴者の攻撃性に及ぼす影響を調べていた心理学者達は、様々なレイプ・フィルムの効果を比較したところ、男性の対女性攻撃性を特に強めるタイプの映画があることに気付いた。それは、被害者の女性が快感を示すという内容のものである。このパターンのポルノはフィルムに限らず非常に多いが、「レイプ神話」と呼ばれる俗説(女はレイプされれば歓ぶ)に基づいている。この種のポルノが男性の女性に対する攻撃性を特に高めること、性犯罪者の多くが強くレイプ神話を支持していることが証明された。暴力的ポルノグラフィーが男性の対女性攻撃性を高めることを説明する仮説には幾つかあるが、レイプ神話の効果を説明するのは、罪悪感低下説である。レイプの被害女性が快を示すなら、レイプは悪いことにはならなくなる。そうした描写に触れた男性は、レイプを罪悪視しなくなる可能性がある。 
  この構造は、最近流行の「心の成長」を描く物語に酷似している。これは被攻撃者が、まず何らかの心理的問題や欠陥を抱えていると前提する。そして別のキャラクターによる問題の「指摘」や、何らかの形で被攻撃者の人格否定を明示または暗示させる不快体験をする様が描かれ、最終的には自分の欠点に「気づき」、精神的に「成長」した被攻撃者が、その不快体験当時の自己の人格の否定を受け容れる(非難者の思想に賛同するなど)という筋書きを持ったストーリーである。すなわち、レイプ神話に基づく暴力的ポルノグラフィーと同様に攻撃と、攻撃に対して快を示す被攻撃者という構造を持っているのである。また、この構造を持つ侮辱表現も多い。成長物語には、レイプ神話同様、人間の攻撃性を正当化する効果が有るのかもしれない。 

積極的:→ポジティヴ 

全体は部分の総和ではない:最初に言ったのは社会学者E.デュルケームで、彼は社会科学の生物学的分析を嫌い、人間の行動は人間の行動からのみ説明できるとして、その特異性を擁護した。その後、「還元主義」(社会科学を生物学に、生物学を化学に、化学を物理学によってというふうに、より小さな構成要素を分析するという科学の手法)を批判するキャッチフレーズとしてゲシュタルト心理学や複雑系などの科学分野や、全体論などの科学でない分野で引用されるようになった。この言葉は一面では正しい。300gの鉄がナイフであるためには、それが適切な形に結合していなくてはならない。つまり部分を研究するだけでは駄目で、それらがどのように関係して全体を作っているのかを分析するという手法は明らかに有用である。しかし全体論者(例えば「人間を人間として扱」ったりしたがる人々)は、ゲシュタルト心理学者や複雑系の研究者のようなこういう立場ではない。彼らは人間が科学によって分析されるのを嫌がり、伝統的人間観の枠内で人を取り扱いたがる。しかし「全体は部分の総和ではない」という言葉で、科学が十分に目を向けていない側面があると強調するのであれば、自分たちの人間観に背く全てをタブー視することは首尾一貫した行為とは言えない。→人間を人間として扱う 

 

た行
 
知識偏重:俗説によれば現在の教育は知識偏重である。何に対して知識偏重であるかという問題だが、一般知能でも、むろん運動能力でもなく、道徳であると断言できよう。現在の「心の教育」では、知識偏重の教育を改め、道徳性を重視するとのことである。明治時代にも同じパターン(当時は「知育偏重」と言った)で道徳教育が叫ばれ、日本が国粋主義に傾斜していく要因となった。 
 

な行
 
流れ:→波に乗る 

波に乗る:スポーツやギャンブルなどの世界では、「成功が連続している時には次のチャレンジでも成功しやすい」という信念が広く信じられている。ギャンブルは論外として、スポーツにおいてこの信念を支持する内部理論は次のようなものである。2度・3度と成功(例えば得点)したスポーツ選手はリラックスし始め、自信もつくのでその後も成功しやすくなる。これが「波に乗る」である。反対に何回も連続して失敗した選手は「波に乗」れず、プレッシャーがかかったり慎重になり過ぎたりして、更にその後の失敗への悪循環に陥ってしまうという。 
  T.ギロビッチら(1985)はバスケットボールにおけるシュート成功率を実験的統計的に分析し、この現象が実在しないことを証明した。「波に乗る(hot hand)」という現象が実在するなら、同じ選手では直前のシュートが成功している場合には、直前に失敗している場合よりも成功しやすい筈である。まず彼らは1980-81年のフィラデルフィア・セヴンティシックサーズのシュート記録を統計的に分析した。結果は「波に乗る」という傾向はなく、むしろやや逆であった(前回失敗した選手の方がやや成功率が高かった)。しかし、これだけでは現象が反証されたとは言えない。「波に乗」っている選手はより難しい場面でもシュートしようとし、また敵チームの警戒も強くなるのでシュートの成功率があがらないのかもしれない。そこで妨害が無く、常に同じ距離から2回ずつシュートすることができるフリースローに分析対象を限定したが、選手の2回目のシュートの平均成功率は、1回目の成否にかかわらず等しかった。さらにギロビッチは続ける。これでもまだ納得しない人々は「波に乗る」という現象の存在を頑固にも主張するために、現象の意味が正しく理解されていないからだと反論する。「波に乗る」という現象は、成功や失敗が連続するということではなく、ショットの成否が予期できるという現象を言うのだ、と。しかし、彼らは大学のバスケットチームの選手を集めて実験し、この反論さえも否定した。選手たちは、自分では「波に乗る」という信仰を支持し、ショットが外れた時には次のショットも外れると予想し、成功した時には次のショットも成功すると考えていたが、全く偶然のレヴェルでしか当たらなかったのである。 

逃げ:心理的な意味での「逃げ」とは、ある認識が不快であるからできるだけ認識せずに済ませるための心的または行動的な反応である。この表現を流通させたのは、間違いなく精神分析学の「防衛機制」の概念であろう。また特に「抵抗」の概念が重要である。抵抗とは、精神分析の治療中に、結論が不快である患者がその認識へ達するのを妨げる反応のことである。まさに精神分析が正しいからこそ患者は抵抗するのだ、と精神分析家は言う。彼らはこの概念を駆使して患者達に精神分析学の正当性(と自分がそれに当てはまっていること)を認めさせるのに非常に成功した。口喧嘩に便利な概念だが、しかしこの論法は科学的にはインチキである。相手が分析結果に同意しようと拒否しようと精神分析的な説明がつくのであれば、同意も拒否も精神分析学が正しい証拠には全くならない。これは科学の常識である。実証心理学者による検証実験では、フロイトをはじめ精神分析家の概念は多くが否定されている。 

二重性:→逆説 

二面性:→逆説 

人間:この言葉を使う話者がすべて人間である関係で、この語は非常に肯定的に捉えられることが多い。ひらがなで表記すると、漢字表記よりもいっそう感動的であると感じる人々がいるようだ。なお、ひらがな表記では「にんげん性」のような複合語は構成しない。 
人間がつくったもの:人工物(あるいは科学技術)を卑下したいときにしばしば使われる語。ある種の思想によれば、コンピュータが人間のような心を持つことは「不可能」であるらしい。このような考え方は反科学主義と非常に仲が良い。灰谷健次郎の小説『島物語』の中で、主人公の父が、家畜の改良品種はどうしても自然のものよりも弱いという信念を表明する場面がある。 
――を人間として扱う:この語は二つの意味で使われる。一つは残虐な扱いをしないということであり、もう一つは伝統的な人間観の枠内で人間を考え、そこから逸脱する場合には論理的・科学的に正当なものであってもタブーとするということである。Harre一派によれば、心理学における実験は心理学界の全ての「悪」(実証主義、機械論的モデル、S-R因果モデルなど)を具現化するものであり、人間を人間として扱うのに相応しい方法にとって代わられなければならない。 

ネガティヴ:消極的な。恐らくは人間性心理学の影響で、積極的=善・消極的=悪という図式が広まった。しかし、実際の影響とは何の関わりも無い「ネガティヴ←→ポジティヴ」という価値観を持ち込んで、「ネガティヴ」なものを否定するのは非常にネガティヴな行為であると言わざるを得ない。 

 

は行
 
非科学的:科学的でないものを否定する言葉ということになっているが、(少なくとも)最近では、科学者や科学を重視する意見を述べる実在の人々によって発せられることは少ないようだ。フィクションに登場するマッド・サイエンティストなどは好んで使用する(すなわち作者が好んで使用させる。例えば『FINAL FANTASYZ』の宝条)ことなどから、この修飾詞は、修飾されるものの否定するためではなく、発言者を否定するための象徴であると考えるのが妥当であろう。 

 
――の痛みが分からない:ある種の俗説によれば、広い遊び場や時間的余裕の不足のために、子ども同士が集団で遊び、ケンカなどをする機会に乏しく、そのため重大な怪我を負わせない程度の力加減が分からなくなっている。これがエスカレートしたものか、若者犯罪論などの文脈で、「人を傷付けるのは、人の痛みが分からないからである」とも言われている。 
  しかし、間違っていることがこれほど明確な俗説も珍しい。暴力は、相手を物理的に戦闘不能にする(あるいは殺す)以外のほとんど、すなわち通常の犯罪の場合には、苦痛を与え、そこから何らかの利益(多くは服従という過程を経て)を引き出すことを目的として行われる。つまり、相手の痛みが分からなければ成立し得ない。実際には、無痛症患者でさえ他人が痛みを感じることを社会的に学習するのである。 
――は一人では生きられない:決まり文句の中には「科学が全てではない」のように、相手の主張内容よりも極端なことを否定するタイプのものがある。これはその典型で、相手が何かへの協力を拒んだり、自由選択を主張したりしている場合などに用いられる。 
――を殺してなぜ悪いの?:1997年9月、TBSのTV番組『NEWS23』神戸小学生連続殺害事件について特集した際、出演していた高校生がこう発言した。その後、大江健三郎(彼も出演していた)が朝日新聞紙上で批判。青少年の病理を象徴するフレーズとして広まった。それだけの話で、別に多くの若者が「殺人は悪くない」という見方を支持したなどの統計結果があるわけではない。 

ヒトラー 
――のクローン:クローニングなど遺伝子技術の是非に関する話題で、反対者側がよく言う例。この一言しか語られないために、発言者がクローン技術をどう理解し、それがどのように応用された結果として「ヒトラーのクローン」像を想定しているのか不明なことも多い。つまり議論の役に全く立たないことが多い。この表現の起源はアイラ・レヴィン原作、フランクリン・J・シャフナー監督のSF映画『ブラジルから来た少年』(1979)の設定である。 

ポジティヴ:積極的=進んでことを行なうことだが、以前はあくまで価値中立的な意味で使われ、積極的であるべきか消極的であるべきかは各々の場合に即して考えられていたようだ。積極的であること自体を善と見なすようになったのは、おそらくポジティヴ・シンキングを打ち出す人間性心理学の影響であろう。 
――シンキング:積極的思考。よほど世俗的な領域のみで広まっているのか、心理学・精神医学事典の類にはこの語は載っていない。別冊宝島304『洗脳されたい!』のINTRODUCTIONにはこうある。 
  
  自己啓発(開発)セミナー、アムウェイ販売員のネットワーク、KKC、ヤマギシ会、催眠セラピー、成功哲学、前世療法、コンプレックス商法、オカルトグッズ、潜在能力開発プログラム、マルチ商法、カルト宗教、そして船井流ビジネス……と、世紀末の沈滞ムードに「一発逆転」や「自己実現」の請け負い人を名乗って集客するマインド・ビジネスの現場、、いうなれば、“それぞれの脳内革命の現場”を探訪してみたレポート集である。一見、単発的に発生しているように見えるマインド・ビジネスがらみの個々の出来事を、「ポジティヴ・シンキング」という糸で結んでみたら何が見えるのか? 
  その答えは、本書のタイトル『洗脳されたい!』に集約されている。 
  (中略) 
  この本は、やみくもな善意や向上心が暴走したとき、人はどうなってしまうのか、と疑ってみる「ネガティヴ・シンカー」からの訓話集でもある。 

凡辞苑:項目の言葉の一般的な定義ではなく、皮肉な論評が書かれた娯楽読み物という試みには、A・ビアス『悪魔の辞典』、ギュスターヴ・フローベール『紋切型事典』などがある。『冷笑家辞典』『世界毒舌大辞典』などは個人が書き下ろしたものではなく、著名人の発言を編集したものである。また、漫画の中には決まりきった表現や格言をパロディにしたギャグがしばしばある。しかし、これらの主眼はあくまで皮肉やギャグにあり、発生過程や濫用の問題点などに対する分析に欠けるものであった。『凡辞苑』では分析を主体とし、大げさな表現や決め付けを避けることを心がけたつもりである。 

本当の:好きなものが嫌いなカテゴリに含まれる、あるいは嫌いなものが好きなカテゴリに含まれることを防ぐ目的で使われる。「本当の〜とは……」という表現は、しばしば通用している意味とは全く無関係に放たれる。ネット上で筆者に敵対的なある人物によれば、筆者の自尊心は本当の自尊心ではないらしい。「本当の自尊心は、」なのだそうだ。同じシステムは「真の」「本物の」や「〜は…ではない」という表現にも見られる。 例:オウムは宗教ではない。 
――自分:しかし「本当の自分」は例外的に、上記のような使い方ではない。これは精神分析学のユング派や人間性心理学の「自己実現」概念の影響と見られる。自己実現という語彙の発明者はK.ゴールドシュタインであるという文献と、C.ユングとする文献がある。定義はそれぞれ「有機体がその再考の成果を達成しようとすること(彼は有機体にはそのような傾向があるとした)」「個人の中に存在するあらゆる可能性を自律的に実現し、本来の自分自身に向かうこと」である。K.ホーナイは、「各個人に独自な成長の源」をreal selfと呼び、その成長過程を自己実現と呼んだ。さっぱり分からなくても気にしなくてよい。A.マズローは自己実現している人の条件を4つ、特徴を15個挙げているが、大まかに言って「(実現不可能なほどの)いい人」である。これらが起源であるとすると、俗語の「本当の自分」という言葉が意味不明なのもうなずける。 
――強さ:肯定的な単語は、自分が嫌いなものに使われると不快である。そこで意味を曖昧にしたまま「本当の」というエクスキューズを付けることで、好ましいものにだけ使われるよう限定したがると考えられる。強さという概念は、使われる対象はあまり善悪とは関係しないが、使われると非常に肯定的な印象をもたらす。「本当の強さ」乱発の理由はそこにあるだろう。柳田理科男『空想科学読本2』の後書きは、これの愉快なパロディで締めくくられる。「しかし、本当の強さもまた、数値にはならない。ゴジラやレッドキングは、数値ではたしかにガマクジラやゴルドンに勝てなかった。しかし、われわれの心の中では、やはり強く魅力的な怪獣として生き続けているではないか。」 
――勇気:勇気もまた「自分」「強さ」と並んで、「本当の」を付けられやすい単語である。ソクラテスとその友人達が「勇気とは何か」について議論する物語が残されている。 友人達は様々な定義を提出するが、ソクラテスはその定義ではこのような悪い例までもが勇気に含まれることになる、という理由をつけて全て拒否してしまう。このエピソードには、好きなものと嫌いなものを分けていたいという人間の欲望がよく現れている。 

 

ま行
 
マッド・サイエンティスト: SFによく登場する人物のタイプで「狂気の科学者」と訳される。有能かつ研究熱心な科学者で、対人関係が不得手または無関心、プライドが高い、非寛容、本来の意味での科学教的思想を持つなどの特徴がある。やせているか中肉であり、太っていることはまずない。悪の科学者とはイコールではなく、これを含む概念である。悪の科学者は故意に社会に敵対するが、それ以外のマッド・サイエンティストはしばしば失敗や科学への激しい情熱、または社会的リスクへの関心の低さのため、止むなく危険をもたらす。作品の対象年齢が下がるとデフォルメが強くなり、「悪の科学者」という安直な言葉に当てはまる人物も多くなる。 
  マッド・サイエンティストに対立する形でしばしば登場するある類型的キャラクターは興味深い。彼らはマッド・サイエンティストとは逆の価値観を持つ、マッド・サイエンティスト以上の科学者である。彼らの優越性は業績で示されたり、単に研究ジャンルの神秘性によって雰囲気として醸し出される。神秘的な研究ジャンルとは、代表的なものでは宇宙論・量子力学・カオス理論など、何やら科学界では凄い革命らしいが(読者・視聴者である)大衆には何だかよく分からないジャンルである。マイクル・クライトン原作、スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』では、遺伝子操作で作られた恐竜園ジュラシック・パークに招かれた科学者達のうち、カオス理論を専攻する数学者がこの計画について不吉な言葉を吐く。もちろん彼の予言は(カオスではなくパニック映画の法則に従って)的中する。この的中という結果によって彼と、(結果を予期できなかった)ジュラシック・パーク建設に携わった多くのマッド・サイエンティストとの対比が一段と鮮やかになるのである。 
  また、スクウェアのRPGソフト『FINAL FANTASY Z』に描かれる宝条とガストという二人の科学者の対立図式はきわめて典型的なものである。宝条は過剰演出気味の典型的マッド・サイエンティスト、ガストは宝条を上回る天才でありしかも穏やかな人格者とされている。宝条が「いいところ」を見せるシーンは、誇張でなくひとつも無い。一方ガスト博士は(物語の時代には既に故人であるにもかかわらず)、数多くの道徳的見せ場を与えられている。 
  このような演出が普及する背景に潜む大衆のニーズを見取るのは容易である。つまり、大衆は科学を権威として認識しているが、同時に反発や不安も抱いている。そこで架空のマッド・サイエンティスト達に欠点や失敗を見つけたり、あるいは科学者でない登場人物(=自分たちの代弁者)が彼らを堂々と批判する様を見て少し安心するが、それだけでは十分ではない。科学という不思議で強大な力は、相変わらず科学者に独占されてしまっているのである。そこで、非常に都合の良い存在――自分たちの味方であり、しかも最高の科学者――を創り出し、その権威を借りるのである。ここに至って、知性や科学はもはや敵の独占武器ではなく、自分たちの保護者となる。大衆はわけのわからない科学なる力を使う偉そうな連中に独力で対抗する必要はなくなる。マッド・サイエンティストより強く、彼らの武器を知り尽くした科学者が自分たちを保護してくれるという安心感が得られるのである。→悪の科学者科学 

眼鏡:西洋では眼鏡は学識の象徴であり、眼鏡の発明(13世紀)以前の実在の人物を描いた絵画にjも、 学識を示すため眼鏡をかけているものが多い。そのため目上の者の前で眼鏡をかけるのは高慢であるという印象があり、例えばドイツでは皇帝の前で眼鏡を外す儀礼があった。こうした傾向は東洋にも伝わり、中国では目上の者の前では眼鏡を外さなければならず、韓国も親の前ではそうしなければならなかった。日本では長い間、眼鏡は単なる実用品として捉えられていたが、明治の富国強兵を目的とした教育政策以後は、やはり学識・エリートの象徴という見方をされるようになった。(以上、白山晰也『眼鏡の社会史』による) 
  アイザック・アシモフは『無学礼賛』と題するエッセイで、ユーモアを交えながら次のように分析している。 

  今日の大衆的視覚芸術においては、メガネは高度の知性の象徴なのである(おそらく、世間の人が、教育ある人間は読書という有害で不健康な習慣にふけって、眼をだめにしてしまうものと信じているためだろう)。ふつう映画やテレビの主人公は、メガネをかけない。しかし、時には主人公が建築技師や化学者であることがあって、彼は大学にいったことを証明するために、メガネをかけなければならないのである。この場合、彼は、熱弁をふるうたびに、いつもメガネをぱっと取るのである。というのは、男らしいこととメガネをかけることとは両立しないからだ。もちろん、彼は一枚の印刷物を読むべく眼鏡をかけるが、唇をきっと結んで、学者に似合わず勇ましいおなじみの役割を演ずる時には、またもやそれを引き剥すのだ。 
  もっといい例はハリウッドのお定まりのやつなのだが、これはあまり始終使い古されて陳腐になってしまったので、ハリウッドでさえ、とてももう一度使うわけにはいかないという代物である(まず信じ難いようなできごとだ)。ここでいうお定まりとは、絶世の美女(ローラ・ラブリーと呼んでおこう)がメガネをかけているために醜く見えると仮定する類のやつである。 
  この手は、何度も使われた。ローラ・ラブリーは図書館員だったり学校の先生だったりするが(ハリウッドの慣習によれば、女性に独身と不幸せを保証する二つの職業である)、もちろんその事実を示すべく大きな鼈甲縁のメガネ(最も知的なタイプだ)をかけている。 
  さて、観衆の中の五体満足な男性なら誰でも、メガネをかけたローラの姿に、メガネをかけていない時と少しも変ることなく情緒をかき立てられる。ところが、映画の主人公を演ずる俳優の歪んだ眼には、メガネをかけたローラ・ラブリーは平凡な女に見えるのだ。話の途中で、世慣れた親切なローラの女友達が、彼女からメガネを外す。思いがけなくもローラはメガネなしで完璧に見えることがわかり、わが主人公は今や美人のローラと烈しい恋に陥って、ここに申し分なく華やかなフィナーレとなるのである。(中略) 
  そうだ、このメガネは、文字どおりのメガネではないのだ。それは単なる象徴――知性の象徴に過ぎないのだ。観衆は二つのことを教えられる。つまり、(a)教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす、(b)正規の教育は不可欠ではなく、その気になれば最低に切りつめることができ、その結果として知性の発達が押さえられれば幸せがくる、ということである。 

  もっとも、『眼鏡の社会史』によれば「教育ある人間は眼鏡をかけていることが多い」という統計的事実はあるようだ。 

目に見えるものしか信じられない:擬似科学や宗教などの信奉者が、自分たちの信念を受け容れない人々――特に「非科学的」であることを理由にその信念の共有を拒否する人々に向ける非難の言葉。字義通りの意味では明らかに間違っている。「目に見えない」科学的概念は、熱、真空、電流、重力、電磁波(可視光線も光を反射する訳ではないので、正確には目に見えない)、酸素や窒素など無色透明の気体、エントロピー、波動関数など数知れない。 

 

や行
 
欲望に負ける:ニュートラルな表現をすれば欲望の通りに行動することだが、主語には人間が当てられるため、この語は常に不公平な使い方をされる。ある人が自分の欲望に勝ったり負けたりするとはどういう事か。この句で指されている欲望にその人が従わなかったとすれば、その理由は必ず、その欲望と相容れない別の欲望に従ったから、である。 この考え方にも、精神分析学の強い影響が見られる。すなわち、欲望とそれを統制する理性、というパターンであるが、このパターンは「本人にとって」欲望の統制が快楽原則的にプラスになる場合にしか通用しないことは明らかである。言い換えれば、ある欲望が別の欲望に勝つことはあっても、ある人が欲望に勝つことなど絶対に有り得ない、ということであり、この言葉は気に食わない行為を誹謗するためにのみ使われることが明らかである。

 
ら行
 
来来軒:日本で最も多く使われる架空の中華料理店の名。「来々軒」と表記することも。 

:誰かのある行為が気に食わない場合、それが誰のどんな行為であろうと、勇気や忍耐力の欠如が原因であるかのように言うことのできる表現が広まっている。それが「そのほうが楽」である。この語は非難の言葉だが、誰に向けられても常に正しく、それゆえに無意味である。誰のどんな行動でも非難できるということは、論理的にはどのように改心しても非難を免れないということだからだ。もっとも、発言者の望むように行動を改めれば、その発言者は非難しなくなるだろう。非難されないという楽な道を選んだわけである。つまり、行動を改めた人が「楽」をしなくなった訳ではなく、単にそう言われなくなったというだけに過ぎない。 

歴史にifはいらない:「と言いますが」のようなエクスキューズを入れるだけで歴史にifを持ち込むことが許されるのは奇妙である。科学では「有意水準を越えていないと帰無仮説を棄却してはいけないと言いますが……」と前置きしても、その仮説は受け容れられない。 

 

わ行
 
ワープロ:ワープロが言語に与える影響について考える振りをすることは、その人が考え深いかのように見せる効果が有るのかもしれない。アイザック・アシモフはこの種の効果を狙った愚かな人物と会話した体験を述べている。レストランで、その人物はアシモフに「もしトルストイがワープロを持っていたら『罪と罰』はどうなっていたでしょうね?」と質問した。「どうもならなかったでしょうな」と彼は答え、続けて言った。「『罪と罰』はドストエフスキーの作品ですからな」この答えでアシモフは「この愚か者に構わずゆっくりと食事を楽しむことができた」とのことである。



 

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