あ行
愛:自己愛、異(同)性愛、親子愛、きょうだい愛、家族愛、友愛、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心、人類愛など、愛を含む熟語には愛が向けられる対象で愛を分類しているかのようなものが多い。しかし、これらの熟語が同一の特徴を持つ感情を対象によって分類しているとは考えられない。「愛」という言葉は、表明することによって得られる社会的利益を狙うものであると考えるほうが合理的であろう。
――に飢える:愛情欠損型性格という概念は存在し、英国の精神科医J.ボウルビイによって提唱された。彼によれば、養育者との長期分離を経験した子ども(施設収容児など)や、過酷な養育環境(虐待など)に置かれた子どもは“無感動性”や“冷たさ”の際立った特異なパーソナリティを相対的に形成しやすいという。ボウルビイは盗癖児のなかに、他の情緒的問題児に対してこうした性格特徴を持つ子どもが多いと主張した。特徴は、他者との親密で安定した関係を築きにくく、根深い対人不信と愛情希求のあいだで絶えず揺れ動く結果、対人接触態度に一貫性が乏しく、対人関係の中で抑うつ的になったり、過度に攻撃的になったりもする。時に攻撃性が自分自身に向けられ、自虐的行為に走ることもある。以上の説明は、欲望や衝動や攻撃性がまるで流体のように存在し、どこかに必ず出現するという精神分析学の欲動論を含んでいる。この考えは科学的に反証されたものである。 これは相対的な形成されやすさの問題であって、誰かが無感動性や冷たさや攻撃性を示したからといって、それを根拠に「この人は愛に飢えているのだ」と結論することはできない。しかし、自分と意見の異なる者を「愛に飢えている」などの表現で、精神的欠陥者と決め付けることにはメリットがある。相手への攻撃(嫌がらせ)と同時に、優越を示すことができる。また、相手の意見を単なる病状として扱うことができ、論駁の義務を免除される。この免除は心理的なものである。相手に性格的欠陥があることで、その意見が論駁の必要の無いものになるという論理は妥当でない。 そもそもこの傾向自体、ボウルビイが考えたものほど強くはないとする専門家の批判も多い。 悪の科学者:マッド・サイエンティストの項で論じる彼らの性質をより強くデフォルメし、社会に対する故意の敵対という一項を加えたもの――恐らくこの辺りが、典型的な「悪の科学者」像と言えるだろう。
家に帰るまでが遠足:教師が遠足の解散時に、注意して帰宅するよう促す時の決まり文句。我々は20歳前後の若者を対象とした調査で、都道府県単位での出身地と、この文句を実際に教師から聞いたことがあるかどうかを尋ね、この文句が全国に広まっていることを明らかにした。遠足にまつわる決まり文句には他に「おやつは300円まで」「バナナはおやつに入らない」がある。 一緒にする:「AならばBである」とき、あるAでない事物Cを持ち出し「ゆえにBである」と結論することはできない。しかしCがAに属するならば、これをBと結論することは正しい。「哺乳類には心臓がある」ならば「ライオン」には「心臓がある」と結論できる。ライオンは哺乳類だからである。哺乳類に心臓が幾つあろうと、それゆえにアサガオに心臓があると結論づけることはできない。アサガオは哺乳類ではないからだ。この場合、アサガオに心臓があると言い出した者に「哺乳類とアサガオを一緒にするな」と抗議するのは論理的に正しい。しかし、「マザー・テレサに心臓がある」と言った人に対して「肉食獣と聖女を一緒にするな」と言うのは間違っている。ライオンがどれほど獰猛で、マザー・テレサがどれほど人格者であろうとも心臓の有無とは関わりが無い。条件にかかわる差異と無関係な差異を「一緒にしてはいけない」。 癒し:医学的・薬学的治療による治癒に対して、心身相関的な意味での治癒、および超自然的な、理論的に説明しにくい治癒が達成されるとき、癒しと呼ばれる。時には、通常の治癒と超自然的な治癒とを含めた広い意味に用いられることもある。ターミナル・ケアにおいて、症状は治療しえなかったが心が癒されたという場合、より高い次元での精神的統合、調和への到達が意味されている。いくつかの異なる意味で用いられるので注意する必要がある。
(弘文堂『ラルース臨床心理学大事典』より)
運:人間は、コインを投げると表と裏が実際以上に交互に出るという直観を持っていることが明らかになっている。ランダムな事象の生起についてのこうした誤った直観は「偏りの錯誤」と呼ばれる。人はこれを運の良い時と悪い時、あるいは良い人と悪い人という超常現象的解釈で合理化する。スポーツやギャンブルの世界では「流れ」「波」とも呼ばれ、スポーツについては心理学的解釈が入るが、Gilovichらによって俗説の間違いが示された。この俗説を信じる心理的な原因は色々ある。→波に乗る えらくない:人の属性や行為の価値を否定するための決まり文句。例えば、小学校の写生会で引率の教師が「色のたくさん入った絵具を持ってくる人がいますが、全然えらくありません」とわざわざ言う場合などである。この表現は「〜が全てではない」などの表現に取って代わられ、現在では古いものになりつつあるか、既になっている。 |
か行
科学:
――教:本来は科学への盲目的信頼を宗教に喩えて揶揄する言葉。相手が、十分な理由があって科学を重視している場合には当然、使用を控えるべきものだが、レッテル貼りに使われることが多い。科学絶対主義、科学万能主義なども同じように使われる。 ――がすべてではない:ある主張の根拠となる体系が十分に有力である場合、反対者はしばしばその無謬性や完全性を否定することで、その心理的な信頼度を弱めようとする。「〜が全てではない」「〜は完全ではない」はこのような目的でよく使われるが、その特殊形である。もちろん科学は全てではないし、間違えることもある。ただし、この言葉が否定している命題は「科学が間違えることは無い」ことなのである。反科学・反知性的言説が浸透した現在、こんなことを信じている者はいたとしても少数であろう。 かわいそう:フィクションにおいて、善良な役柄のキャラクターが悪役に向かって「かわいそうな人ね」と呟く。言われた悪役は激怒するか、少なくとも顕著な動揺を示さなければならない。しかし各作品の作者が、発言者がその状況において本心から相手に同情し、言われた方は激怒するものであると考えて描いているかは極めて疑問である。また、発言者が意図的に侮辱表現を用いていると考えるのにも無理がある。この発言をするキャラクターはしばしば、嫌がらせをするには余りにも純潔すぎるからだ。この表現の解釈は、(キャラクターが現実の人類と同じ精神構造を持っていると仮定する限り)世界観の設定だけで解釈するには無理がある。この表現は「かわいそう」と評価するキャラクターの、評価されるキャラクターに対する優越を表現する記号であるという解釈が妥当であろう。また、筆者の直観では、発言者は非戦闘員(特に女性)が多いように思われる。おそらく、キャラクターが持つ何らかの秀でた力に対する読者の劣等感を低減させるためだろう。
逆説:小学館『新選国語辞典』によれば「@反対の議論。A真理にそむいているようでいて、よくたしかめると真理でもある説」。現在ではAの意味で使われることが多いだろう。すなわち、すぐに論理構造を見抜くことが難しく、一見して矛盾しているかのように見えるが正当な言説のことである。しかし、論理構造を見抜く能力には個人差があり、論理構造を見抜く能力が劣っているほど、より多くの言説が逆説に見えやすいと考えられる。とすれば、この能力の低さが、この語の出現頻度と正に相関すると考えられるだろう。「二重性」「二面性」という語にも同じ事が言える。 狂気の科学者:→悪の科学者、マッド・サイエンティスト 虚構と現実の区別がつかない:虚構の代わりに、漫画やゲーム、インターネットなど具体的なメディア名が入ることもある。これらに共通するのは、割と新しいメディアであることである。1986年のアニメ映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』で、鉄人兵団が攻めてくると騒ぐのび太達を、ママがマンガと現実の区別がつかなくなったのだと決め付ける(が呑気に家事を続けている)シーンがある。また1985年の『ことばを失った若者たち』(桜井哲夫、講談社現代新書)という本にもこのパターンの考えが見られ、これ以前から浸透していたのは確実である。主に若者の猟奇殺人などの犯罪がこのパターンと結び付けて語られる。しかし、これらの犯人達の発言には「ゲームをしているようだった」というような内容のものはあっても、比喩の範囲で説明でき、自分がテレビの前でゲームをしているという妄想を持っていたものはない。彼らは虚構と現実の区別を付けていたからこそ、書店やテレビルームから出て、わざわざ外で犯罪を行なったのである。 公共の福祉:出典は無論、日本国憲法である。 第一三条によれば、「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とある。国民の権利を制限するような法律に関する素人の議論では、反対者が自由又は権利の侵害を唱え、賛成者がそれは公共の福祉によって制限できると言うパターンはお決まりであるようだ。しかし、安易な制限が「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定に反するのではないかという指摘を見かけないのは不思議である。 心:精神は物質よりも尊いものであり、卑俗な物理法則ではなく、別のはるかに神秘的な法則で動いていると考える、伝統的な強い衝動がある。デイヴィド・B・モリスは著書『痛みの文化史』の中で、痛みの研究をしていると話すと必ずといって良いほど「それは体の痛みですか、心の痛みですか」と聞かれるという体験を告白し、単純な二元論の誤りを指摘している。1995年のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、兵器エヴァンゲリオンと操縦者の「脳」の連動を説明しようとした科学者が、友人に「心、でしょ」と穏やかに非難されるシーンがある。
「こころ」と平仮名表記すると、より感動的に受け取られ、またそれを意図して書かれることもあるようだ。
|
さ行
痔:漫画などで「ぢ」と表記されがちだが、正式にはやはり「じ」と書く。
自殺:
集英組:週刊少年ジャンプを始め、集英社が発行する漫画雑誌では作品中の暴力団に、頻繁に「集英組」または「集英会」の名が付けられる。架空の企業が登場作品の出版元から名前を借りることはよくあるが、集英という語は暴力団につけてもよく似合う。 自由:
消極的:→ネガティヴ 城南大学:おそらく日本で最も多く使われる架空の大学名。このような「紋切り型」固有名詞をつけられた物は作品中で重要な役割を持たないことが多いが、現在TV朝日系で放映されている『仮面ライダークウガ』に登場する城南大学は例外である。城南大学はオダギリジョー演じる主人公の母校であり、考古学研究室では彼と関わる遺跡を研究している。単に設定上の重要性だけでなく、きちんと毎回登場するという優遇ぶりである。 人格攻撃:論争において、相手の人格を批判し攻撃する行動。ルールに則って行われるディベートでは反則行為とされる。日本人は特にこの方略を常用するという俗説があるが、真偽は定かではない。 全ての〜が…ではない:相手の論旨より極端な内容を否定するパターン。残念な用例は巷に溢れている。 成長:暴力的ポルノグラフィー、すなわちレイプ物のポルノが視聴者の攻撃性に及ぼす影響を調べていた心理学者達は、様々なレイプ・フィルムの効果を比較したところ、男性の対女性攻撃性を特に強めるタイプの映画があることに気付いた。それは、被害者の女性が快感を示すという内容のものである。このパターンのポルノはフィルムに限らず非常に多いが、「レイプ神話」と呼ばれる俗説(女はレイプされれば歓ぶ)に基づいている。この種のポルノが男性の女性に対する攻撃性を特に高めること、性犯罪者の多くが強くレイプ神話を支持していることが証明された。暴力的ポルノグラフィーが男性の対女性攻撃性を高めることを説明する仮説には幾つかあるが、レイプ神話の効果を説明するのは、罪悪感低下説である。レイプの被害女性が快を示すなら、レイプは悪いことにはならなくなる。そうした描写に触れた男性は、レイプを罪悪視しなくなる可能性がある。
積極的:→ポジティヴ 全体は部分の総和ではない:最初に言ったのは社会学者E.デュルケームで、彼は社会科学の生物学的分析を嫌い、人間の行動は人間の行動からのみ説明できるとして、その特異性を擁護した。その後、「還元主義」(社会科学を生物学に、生物学を化学に、化学を物理学によってというふうに、より小さな構成要素を分析するという科学の手法)を批判するキャッチフレーズとしてゲシュタルト心理学や複雑系などの科学分野や、全体論などの科学でない分野で引用されるようになった。この言葉は一面では正しい。300gの鉄がナイフであるためには、それが適切な形に結合していなくてはならない。つまり部分を研究するだけでは駄目で、それらがどのように関係して全体を作っているのかを分析するという手法は明らかに有用である。しかし全体論者(例えば「人間を人間として扱」ったりしたがる人々)は、ゲシュタルト心理学者や複雑系の研究者のようなこういう立場ではない。彼らは人間が科学によって分析されるのを嫌がり、伝統的人間観の枠内で人を取り扱いたがる。しかし「全体は部分の総和ではない」という言葉で、科学が十分に目を向けていない側面があると強調するのであれば、自分たちの人間観に背く全てをタブー視することは首尾一貫した行為とは言えない。→人間を人間として扱う |
た行
知識偏重:俗説によれば現在の教育は知識偏重である。何に対して知識偏重であるかという問題だが、一般知能でも、むろん運動能力でもなく、道徳であると断言できよう。現在の「心の教育」では、知識偏重の教育を改め、道徳性を重視するとのことである。明治時代にも同じパターン(当時は「知育偏重」と言った)で道徳教育が叫ばれ、日本が国粋主義に傾斜していく要因となった。 |
な行
流れ:→運、波に乗る
波に乗る:スポーツやギャンブルなどの世界では、「成功が連続している時には次のチャレンジでも成功しやすい」という信念が広く信じられている。ギャンブルは論外として、スポーツにおいてこの信念を支持する内部理論は次のようなものである。2度・3度と成功(例えば得点)したスポーツ選手はリラックスし始め、自信もつくのでその後も成功しやすくなる。これが「波に乗る」である。反対に何回も連続して失敗した選手は「波に乗」れず、プレッシャーがかかったり慎重になり過ぎたりして、更にその後の失敗への悪循環に陥ってしまうという。
逃げ:心理的な意味での「逃げ」とは、ある認識が不快であるからできるだけ認識せずに済ませるための心的または行動的な反応である。この表現を流通させたのは、間違いなく精神分析学の「防衛機制」の概念であろう。また特に「抵抗」の概念が重要である。抵抗とは、精神分析の治療中に、結論が不快である患者がその認識へ達するのを妨げる反応のことである。まさに精神分析が正しいからこそ患者は抵抗するのだ、と精神分析家は言う。彼らはこの概念を駆使して患者達に精神分析学の正当性(と自分がそれに当てはまっていること)を認めさせるのに非常に成功した。口喧嘩に便利な概念だが、しかしこの論法は科学的にはインチキである。相手が分析結果に同意しようと拒否しようと精神分析的な説明がつくのであれば、同意も拒否も精神分析学が正しい証拠には全くならない。これは科学の常識である。実証心理学者による検証実験では、フロイトをはじめ精神分析家の概念は多くが否定されている。 二重性:→逆説 二面性:→逆説 人間:この言葉を使う話者がすべて人間である関係で、この語は非常に肯定的に捉えられることが多い。ひらがなで表記すると、漢字表記よりもいっそう感動的であると感じる人々がいるようだ。なお、ひらがな表記では「にんげん性」のような複合語は構成しない。
ネガティヴ:消極的な。恐らくは人間性心理学の影響で、積極的=善・消極的=悪という図式が広まった。しかし、実際の影響とは何の関わりも無い「ネガティヴ←→ポジティヴ」という価値観を持ち込んで、「ネガティヴ」なものを否定するのは非常にネガティヴな行為であると言わざるを得ない。 |
は行
非科学的:科学的でないものを否定する言葉ということになっているが、(少なくとも)最近では、科学者や科学を重視する意見を述べる実在の人々によって発せられることは少ないようだ。フィクションに登場するマッド・サイエンティストなどは好んで使用する(すなわち作者が好んで使用させる。例えば『FINAL
FANTASYZ』の宝条)ことなどから、この修飾詞は、修飾されるものの否定するためではなく、発言者を否定するための象徴であると考えるのが妥当であろう。
人:
ヒトラー:
ポジティヴ:積極的=進んでことを行なうことだが、以前はあくまで価値中立的な意味で使われ、積極的であるべきか消極的であるべきかは各々の場合に即して考えられていたようだ。積極的であること自体を善と見なすようになったのは、おそらくポジティヴ・シンキングを打ち出す人間性心理学の影響であろう。
凡辞苑:項目の言葉の一般的な定義ではなく、皮肉な論評が書かれた娯楽読み物という試みには、A・ビアス『悪魔の辞典』、ギュスターヴ・フローベール『紋切型事典』などがある。『冷笑家辞典』『世界毒舌大辞典』などは個人が書き下ろしたものではなく、著名人の発言を編集したものである。また、漫画の中には決まりきった表現や格言をパロディにしたギャグがしばしばある。しかし、これらの主眼はあくまで皮肉やギャグにあり、発生過程や濫用の問題点などに対する分析に欠けるものであった。『凡辞苑』では分析を主体とし、大げさな表現や決め付けを避けることを心がけたつもりである。 本当の:好きなものが嫌いなカテゴリに含まれる、あるいは嫌いなものが好きなカテゴリに含まれることを防ぐ目的で使われる。「本当の〜とは……」という表現は、しばしば通用している意味とは全く無関係に放たれる。ネット上で筆者に敵対的なある人物によれば、筆者の自尊心は本当の自尊心ではないらしい。「本当の自尊心は、」なのだそうだ。同じシステムは「真の」「本物の」や「〜は…ではない」という表現にも見られる。
例:オウムは宗教ではない。
|
ま行
マッド・サイエンティスト:
SFによく登場する人物のタイプで「狂気の科学者」と訳される。有能かつ研究熱心な科学者で、対人関係が不得手または無関心、プライドが高い、非寛容、本来の意味での科学教的思想を持つなどの特徴がある。やせているか中肉であり、太っていることはまずない。悪の科学者とはイコールではなく、これを含む概念である。悪の科学者は故意に社会に敵対するが、それ以外のマッド・サイエンティストはしばしば失敗や科学への激しい情熱、または社会的リスクへの関心の低さのため、止むなく危険をもたらす。作品の対象年齢が下がるとデフォルメが強くなり、「悪の科学者」という安直な言葉に当てはまる人物も多くなる。
マッド・サイエンティストに対立する形でしばしば登場するある類型的キャラクターは興味深い。彼らはマッド・サイエンティストとは逆の価値観を持つ、マッド・サイエンティスト以上の科学者である。彼らの優越性は業績で示されたり、単に研究ジャンルの神秘性によって雰囲気として醸し出される。神秘的な研究ジャンルとは、代表的なものでは宇宙論・量子力学・カオス理論など、何やら科学界では凄い革命らしいが(読者・視聴者である)大衆には何だかよく分からないジャンルである。マイクル・クライトン原作、スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』では、遺伝子操作で作られた恐竜園ジュラシック・パークに招かれた科学者達のうち、カオス理論を専攻する数学者がこの計画について不吉な言葉を吐く。もちろん彼の予言は(カオスではなくパニック映画の法則に従って)的中する。この的中という結果によって彼と、(結果を予期できなかった)ジュラシック・パーク建設に携わった多くのマッド・サイエンティストとの対比が一段と鮮やかになるのである。 また、スクウェアのRPGソフト『FINAL FANTASY Z』に描かれる宝条とガストという二人の科学者の対立図式はきわめて典型的なものである。宝条は過剰演出気味の典型的マッド・サイエンティスト、ガストは宝条を上回る天才でありしかも穏やかな人格者とされている。宝条が「いいところ」を見せるシーンは、誇張でなくひとつも無い。一方ガスト博士は(物語の時代には既に故人であるにもかかわらず)、数多くの道徳的見せ場を与えられている。 このような演出が普及する背景に潜む大衆のニーズを見取るのは容易である。つまり、大衆は科学を権威として認識しているが、同時に反発や不安も抱いている。そこで架空のマッド・サイエンティスト達に欠点や失敗を見つけたり、あるいは科学者でない登場人物(=自分たちの代弁者)が彼らを堂々と批判する様を見て少し安心するが、それだけでは十分ではない。科学という不思議で強大な力は、相変わらず科学者に独占されてしまっているのである。そこで、非常に都合の良い存在――自分たちの味方であり、しかも最高の科学者――を創り出し、その権威を借りるのである。ここに至って、知性や科学はもはや敵の独占武器ではなく、自分たちの保護者となる。大衆はわけのわからない科学なる力を使う偉そうな連中に独力で対抗する必要はなくなる。マッド・サイエンティストより強く、彼らの武器を知り尽くした科学者が自分たちを保護してくれるという安心感が得られるのである。→悪の科学者、科学 眼鏡:西洋では眼鏡は学識の象徴であり、眼鏡の発明(13世紀)以前の実在の人物を描いた絵画にjも、
学識を示すため眼鏡をかけているものが多い。そのため目上の者の前で眼鏡をかけるのは高慢であるという印象があり、例えばドイツでは皇帝の前で眼鏡を外す儀礼があった。こうした傾向は東洋にも伝わり、中国では目上の者の前では眼鏡を外さなければならず、韓国も親の前ではそうしなければならなかった。日本では長い間、眼鏡は単なる実用品として捉えられていたが、明治の富国強兵を目的とした教育政策以後は、やはり学識・エリートの象徴という見方をされるようになった。(以上、白山晰也『眼鏡の社会史』による)
今日の大衆的視覚芸術においては、メガネは高度の知性の象徴なのである(おそらく、世間の人が、教育ある人間は読書という有害で不健康な習慣にふけって、眼をだめにしてしまうものと信じているためだろう)。ふつう映画やテレビの主人公は、メガネをかけない。しかし、時には主人公が建築技師や化学者であることがあって、彼は大学にいったことを証明するために、メガネをかけなければならないのである。この場合、彼は、熱弁をふるうたびに、いつもメガネをぱっと取るのである。というのは、男らしいこととメガネをかけることとは両立しないからだ。もちろん、彼は一枚の印刷物を読むべく眼鏡をかけるが、唇をきっと結んで、学者に似合わず勇ましいおなじみの役割を演ずる時には、またもやそれを引き剥すのだ。
もっとも、『眼鏡の社会史』によれば「教育ある人間は眼鏡をかけていることが多い」という統計的事実はあるようだ。 目に見えるものしか信じられない:擬似科学や宗教などの信奉者が、自分たちの信念を受け容れない人々――特に「非科学的」であることを理由にその信念の共有を拒否する人々に向ける非難の言葉。字義通りの意味では明らかに間違っている。「目に見えない」科学的概念は、熱、真空、電流、重力、電磁波(可視光線も光を反射する訳ではないので、正確には目に見えない)、酸素や窒素など無色透明の気体、エントロピー、波動関数など数知れない。 |
や行
欲望に負ける:ニュートラルな表現をすれば欲望の通りに行動することだが、主語には人間が当てられるため、この語は常に不公平な使い方をされる。ある人が自分の欲望に勝ったり負けたりするとはどういう事か。この句で指されている欲望にその人が従わなかったとすれば、その理由は必ず、その欲望と相容れない別の欲望に従ったから、である。 この考え方にも、精神分析学の強い影響が見られる。すなわち、欲望とそれを統制する理性、というパターンであるが、このパターンは「本人にとって」欲望の統制が快楽原則的にプラスになる場合にしか通用しないことは明らかである。言い換えれば、ある欲望が別の欲望に勝つことはあっても、ある人が欲望に勝つことなど絶対に有り得ない、ということであり、この言葉は気に食わない行為を誹謗するためにのみ使われることが明らかである。 |
ら行
来来軒:日本で最も多く使われる架空の中華料理店の名。「来々軒」と表記することも。
楽:誰かのある行為が気に食わない場合、それが誰のどんな行為であろうと、勇気や忍耐力の欠如が原因であるかのように言うことのできる表現が広まっている。それが「そのほうが楽」である。この語は非難の言葉だが、誰に向けられても常に正しく、それゆえに無意味である。誰のどんな行動でも非難できるということは、論理的にはどのように改心しても非難を免れないということだからだ。もっとも、発言者の望むように行動を改めれば、その発言者は非難しなくなるだろう。非難されないという楽な道を選んだわけである。つまり、行動を改めた人が「楽」をしなくなった訳ではなく、単にそう言われなくなったというだけに過ぎない。 歴史にifはいらない:「と言いますが」のようなエクスキューズを入れるだけで歴史にifを持ち込むことが許されるのは奇妙である。科学では「有意水準を越えていないと帰無仮説を棄却してはいけないと言いますが……」と前置きしても、その仮説は受け容れられない。 |
わ行
ワープロ:ワープロが言語に与える影響について考える振りをすることは、その人が考え深いかのように見せる効果が有るのかもしれない。アイザック・アシモフはこの種の効果を狙った愚かな人物と会話した体験を述べている。レストランで、その人物はアシモフに「もしトルストイがワープロを持っていたら『罪と罰』はどうなっていたでしょうね?」と質問した。「どうもならなかったでしょうな」と彼は答え、続けて言った。「『罪と罰』はドストエフスキーの作品ですからな」この答えでアシモフは「この愚か者に構わずゆっくりと食事を楽しむことができた」とのことである。 |